2020.11.29
日光街道の20番目の宿場で
ある今市宿到着。12:56
日本橋から138.5km。
今市宿本陣跡地には、道の
駅日光・日光街道ニコニコ
本陣となり、日光観光をす
る多くの人が利用している
人気道の駅で、じゃらんに
おける道の駅で関東地区1位
の評価を受けている。
ここは、渡邊佐平商店。地図
天保13年(1842年)の創業
以来、日光山麓の清冽な名水
を汲み、日光連山から吹き下
ろす冬の寒気の中で、酒造り
を続けている酒造メーカー。
ポリシーは「純米醸造酒こそ
本来の地酒である」と考え「
純米大吟醸清開低温10年熟成
」「特別本醸造 日光誉8年熟
成」は、共に限定数であり看
板商品です。
日光市観光協会のキャラクタ
ー「日光仮面」を描いた汚水
マンホール蓋です。
創業1868年(慶応4年)江戸
末期の建物をそのままに、こ
の今市の日光街道沿いで「叶
一」といブランドで味噌・醤
油を販売している日野為商店
が、2018年7月創業150周年を
機に気軽に休める街の茶屋「
お休み処叶」を併設して、リ
ニューアルオープンしました。
店内ではカフェを併設し、明
治~大正・昭和の各時代の貴重な生活用品や蔵出しの
資料などの展示もしています。
瀧尾神社入り口までやって来
た。地図 ここも1年前に訪
問参拝していた。今市総鎮守
瀧尾神社(たきのおじんじゃ
)勝道上人御創祀の古社. 天
応2年(782)勝道上人が日光二荒山上男体山に二荒
山大神を祀ると同時に当社にもこれを祀るに始まる。
三度杉並木が現れた。今度は
アスファルトが剥がされた砂
利道とこれが本来の日光街道
なのか。この杉並木脇には、
杉並木公園が併設されている。
日光杉並木街道の保護と、地
域の文化継承のために整備さ
れた公園。 旧今市市は杉線香
の生産日本一を誇っています
が、かつては杉線香生産の動
力として水車が利用されてい
て、公園内にも数体の水車が
ある、東照宮まで歩くため無
駄な横道には進めなかった。
水車では、 米つき、粉ひきな
どにも使われた。また、公園
内には文化遺産である旧江連
家を移築復元され、現在は蕎
麦屋として営業しています。
砲弾打ち込み杉
瀬川の一里塚から日光方面
に800m進んだところにある
のが「砲弾打ち込み杉」。新
政府軍と旧幕府軍とが争った
戊辰戦争の戦火が杉並木連なるこの地でも行われた。
この杉に残る砲弾の跡はこの時のものであるらしい
が、全く感じ取れなかった。
歩いていると杉の木に名前が
掲げられているものを沢山見
受けられる。杉並木保護に賛
同された方に並木杉を1本1
千万円で購入し、代金は栃木
県が日光杉並木街道保護基金
で運用しその運用益で並木杉
の樹勢回復や杉並木保護の普
及啓発などの保護事業を実施
する制度でした。
実際に目で見ることは出来な
かったが、ここの口地区には
稀少は野菜があった。その名
は野口菜と言い、別名水掛菜
と呼ばれ、アブラナ科の在来
種水掛菜とは違い独特の味わいがあるとか?栽培の歴
史は、古く室町時代からと言われ日光東照宮造営のた
め静岡の久能山東照宮からやってきた人達によりもた
らされた諸説あるが詳細は不明です。
ここに到着するまでの道は旧
日光街道の中で一番危険であ
った。山が迫っているため国
道には歩道が無く車の往来を
気にしながら車道を歩いてい
た。この間に並木太郎や銀杏杉などの銘木があったが
車を気をつけるのに夢中になり見過ごしてしまった。
ここは「明治天皇七里御小休所」地図 明治9年
(1876)明治天皇は奥州視察するためこの小休所跡
(手塚源蔵宅)で暫し休息された。 この先の鉢石宿
は道に階段があったため、天
皇はここで馬車から馬に乗り
換えそうだ。
14:23 JR日光駅前到着
14:26 東武日光駅前到着


さあいよいよ最後の宿場鉢石
宿だ。日光街道の21番目の宿
場で、江戸時代に徳川家康を
日光山に祀り日光参詣が盛ん
となると、日光東照宮の門前
町として大いに栄え、宿場の
規模は 本陣2軒、旅籠19軒
、人口985人ですが、本陣の
位置などははっきりしません。
鉢石町は、766年に勝道上人
により日光が開山されたとき
の輪王寺とともにできた門前
町で、鉢石の地名の由来は、
鉢の形をしていた石があった
ことにちなんでつけれたとい
う、言い伝えがありその鉢石
は、現在も大事に保護されて
いるがどこにあるのだろうか。
ここは、名水 磐裂霊水です。
日光には沢山の湧き水がある
が、その中でも一番評判が高
いのがこの 磐裂霊水(いわ
さくれいすい) 1,200余年
前日光開山の祖勝道上人がこ
の地に清水を発見し、以来修
験者が神仏に供えた霊水と伝えられる。この水は男
体山系の湧水で、日本で最もおいしい水として評判
です。
14:47 旧日光街道の終着点
神橋に到着。日本橋から147
kmであった。だがここまで
来て東照宮門前まで行かない
のも腑に落ちないため老体に
は鞭を打ち、足を引きずって
歩き始めた。「神橋」は、東
照宮の所有では無く、日光男
体山をご神体としてまつる二
荒山神社の建造物で、日光山

ある今市宿到着。12:56
日本橋から138.5km。
今市宿本陣跡地には、道の
駅日光・日光街道ニコニコ

る多くの人が利用している
人気道の駅で、じゃらんに
おける道の駅で関東地区1位
の評価を受けている。

天保13年(1842年)の創業
以来、日光山麓の清冽な名水
を汲み、日光連山から吹き下
ろす冬の寒気の中で、酒造り

ポリシーは「純米醸造酒こそ
本来の地酒である」と考え「
純米大吟醸清開低温10年熟成
」「特別本醸造 日光誉8年熟

板商品です。
日光市観光協会のキャラクタ
ー「日光仮面」を描いた汚水
マンホール蓋です。

末期の建物をそのままに、こ
の今市の日光街道沿いで「叶
一」といブランドで味噌・醤
油を販売している日野為商店

機に気軽に休める街の茶屋「
お休み処叶」を併設して、リ
ニューアルオープンしました。
店内ではカフェを併設し、明
治~大正・昭和の各時代の貴重な生活用品や蔵出しの
資料などの展示もしています。

た。地図 ここも1年前に訪
問参拝していた。今市総鎮守
瀧尾神社(たきのおじんじゃ
)勝道上人御創祀の古社. 天
応2年(782)勝道上人が日光二荒山上男体山に二荒
山大神を祀ると同時に当社にもこれを祀るに始まる。

アスファルトが剥がされた砂
利道とこれが本来の日光街道
なのか。この杉並木脇には、
杉並木公園が併設されている。

域の文化継承のために整備さ
れた公園。 旧今市市は杉線香
の生産日本一を誇っています
が、かつては杉線香生産の動

て、公園内にも数体の水車が
ある、東照宮まで歩くため無
駄な横道には進めなかった。
水車では、 米つき、粉ひきな

内には文化遺産である旧江連
家を移築復元され、現在は蕎
麦屋として営業しています。

瀬川の一里塚から日光方面
に800m進んだところにある
のが「砲弾打ち込み杉」。新
政府軍と旧幕府軍とが争った
戊辰戦争の戦火が杉並木連なるこの地でも行われた。
この杉に残る砲弾の跡はこの時のものであるらしい
が、全く感じ取れなかった。

掲げられているものを沢山見
受けられる。杉並木保護に賛
同された方に並木杉を1本1
千万円で購入し、代金は栃木

で運用しその運用益で並木杉
の樹勢回復や杉並木保護の普
及啓発などの保護事業を実施
する制度でした。

かったが、ここの口地区には
稀少は野菜があった。その名
は野口菜と言い、別名水掛菜
と呼ばれ、アブラナ科の在来
種水掛菜とは違い独特の味わいがあるとか?栽培の歴
史は、古く室町時代からと言われ日光東照宮造営のた
め静岡の久能山東照宮からやってきた人達によりもた
らされた諸説あるが詳細は不明です。

日光街道の中で一番危険であ
った。山が迫っているため国
道には歩道が無く車の往来を
気にしながら車道を歩いてい
た。この間に並木太郎や銀杏杉などの銘木があったが
車を気をつけるのに夢中になり見過ごしてしまった。
ここは「明治天皇七里御小休所」地図 明治9年
(1876)明治天皇は奥州視察するためこの小休所跡
(手塚源蔵宅)で暫し休息された。 この先の鉢石宿

皇はここで馬車から馬に乗り
換えそうだ。





宿だ。日光街道の21番目の宿
場で、江戸時代に徳川家康を
日光山に祀り日光参詣が盛ん
となると、日光東照宮の門前

規模は 本陣2軒、旅籠19軒
、人口985人ですが、本陣の
位置などははっきりしません。
鉢石町は、766年に勝道上人

の輪王寺とともにできた門前
町で、鉢石の地名の由来は、
鉢の形をしていた石があった
ことにちなんでつけれたとい

は、現在も大事に保護されて
いるがどこにあるのだろうか。
ここは、名水 磐裂霊水です。
日光には沢山の湧き水がある

いのがこの 磐裂霊水(いわ
さくれいすい) 1,200
前日光開山の祖勝道上人がこ
の地に清水を発見し、以来修
験者が神仏に供えた霊水と伝えられる。この水は男
体山系の湧水で、日本で最もおいしい水として評判
です。

神橋に到着。日本橋から147
kmであった。だがここまで
来て東照宮門前まで行かない
のも腑に落ちないため老体に

歩き始めた。「神橋」は、東
照宮の所有では無く、日光男
体山をご神体としてまつる二
荒山神社の建造物で、日光山