『歩いていこう旧中山道五十六次』の旅
をどんどん歩を進めよう。関ヶ原と言え
ば以前こんな記事が新聞に載りupしてい
た。『甲冑武者体験サービスがスタート
関ヶ原町』、ここでもう少し詳しく調
べてみると『笹尾山で甲冑体験2014』関
ヶ原歳時記2014には面白い記事が沢山載
っていた。そういえば関ヶ原の戦いの地
寄ってなかった。『歩いていこう旧中山
道五十六次道草リスト』でいつの日か寄
り道しよう。
街道はここで左
に逸れる。7:53
地図 旧街道に
は消雪パイプが
埋められていた
と言うことは、
ここら周辺は豪
雪地帯なのか。
確かに降雪期に
なると“関ヶ原付
近雪のため新幹線に遅れが出ています”と
ニュースで度々アナウンスされるのを思
い出す。
不破関の跡に着
いた。7:58地図
不破関(ふわの
せき)は、古代
東山道の関所で
ある。東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関
とともに、畿内を防御するために特に重
視され、これを三関という。三関から東
は東国または関東と呼ばれた。
資料館があった
が開館前だった
為、先を急ぐこ
とにした。中山
道は左側の道を
降りていく。そこには藤古川があるが、
672年、大友皇子(弘文天皇)と大海人
皇子(天武天皇)が関ヶ原で戦った壬申
の乱では、藤古
川をはさんで両
軍が対峙したと
言われている。
間の宿「山中」
に入っていく。
黒血川ほとりに
ある上を東海道
線が走る隧道。
壬申の乱では、
この地で両軍初の戦さが行われ、両軍兵
士の流血がこの川に流れ込み、川を赤黒
く染めてしまったからの由来から黒血川
と名乗られていたと言う。
懐かしいもの見
付けた。瓶(甕)
だと言っても使
ったことは無い
、幼い時分家で
確か見かけたことがある程度でしか無い
。多分液体の貯蔵に使っていたと思う。
それがこんなに大量に放置されているな
んて1つ土産に欲しいが今は歩いている
からそんな重いものを持ってまで歩ける
余裕など無い。今度車でお伺い交渉して
みよう。地図 調べると藤野本家と言う
会社で、自家酵母を使用し、時間と手間
暇をかけ 昔ながらの手造りで、日本のお
酢では珍しく長期間熟成させた酢を作る
醸造会社であった。特長は、蔵の中でゆ
っくりと醸造させる為、長く眠った酢は
円やかなお酢になっていき、お酢独特の
鼻にツーンとくるような刺激は無く、滑
らかな香りで優しい円やか酢らしいです。
そうか、酢を作っている会社だったのか
、それで甕があったんだね。
これから小さな峠
越えがあり山深く
なっていく。途中
には農作物を守る
ネットを見付けた。
ここらでは猪や猿、鹿などが作物を荒ら
すんだな!これは鈴鹿峠付近を通ったと
きに教わっていた。
民家や人影が無い
今須峠に差し掛か
った。標高160m
ほどの急勾配のあ
る坂道であった。
かつては、頂上辺りに茶店があり往来する
旅人の疲れを癒す場所として賑わっていた
と言うが、全くの面影は残っていなかった。
積雪期の冬場は雪深く、旅人泣かせの難所
であったという。頂上付近には、今須村と
関ケ原村の境界石標柱が建っています。
8:31 地図 この
先には復元された
「一里塚」を左手
にし、この峠を下
ると中世末頃には
関所が置かれていたという今須宿へと入っ
ていきます。難所で有名な今須峠だが現在
は舗装されてとおりやすくなったが、女性
の一人歩きは注意が必要です。
今須峠を越えると
その先は59番目の
宿場「今須宿」は
もうすぐです。
街道はここから旧
道へ逸れていく。
地図 8:34 いよいよ宿場内へ入って
いく。
8:38 日本橋か
ら数えて59番目
の宿場「今須宿
」本陣跡に到着。
中山道美濃の国
16宿のうちの最
西端に位置する
今須宿は、加納
宿、関ケ原宿に
次ぐ大きさを誇り、琵琶湖から美濃への
物資流通の商業地としても、また妙応寺
の門前町としても大きく栄えた宿です。
人馬の引き継ぎや幕府公用の郵便物引き
継ぎなどの業務を行う問屋場が7軒あっ
たところからも、相当な賑わいであった
ろうと想像されます。中山道宿村大概帳
には宿内家数は464軒。本陣1脇本陣2、
旅籠13軒、宿内人口は1784人と標されて
います。