2021.01.05

DSCF1314今、関門トンネルの人道を
歩き、門司から下関まで歩
いてやって来た。ここは、
関門トンネル下関人道口で
す。 地図

DSCF1305暫しこの地を徘徊しよう。
これは、源義経像があるじ
ゃないか!そうかここが、
「壇ノ浦の戦い」の地だっ
たんだ。1185年(寿永4年

DSCF1306/元暦2年)3月24日、長門
国赤間関壇ノ浦で行なわれ
た「治承・永寿の乱」、平
家と源氏の雌雄をかけた源
平合戦。その最後の舞台と

なったのは、長門国赤間関壇ノ浦の海上でした。
平氏は、これまで一ノ谷や屋島の合戦で悉く大敗し
、壇ノ浦まで追い詰められてきた。白旗をなびかせ
るのは、源義経が率いる源氏勢、対する平家は平宗
盛、平知盛が率い、船には赤い旗が翻っていました。
天下分け目の大海戦は、矢合わせを合図に火蓋を切
って落とします。平氏の主戦力は海上戦を得意とし
た水軍。一方源氏は、屋島の戦いがはじまるまでは
水軍を持たず、海上戦において優位な指揮を執るこ
とができていませんでした。そのため、壇ノ浦の戦
が始まると平氏は東流れの潮流に乗り、戦いを有
利にしていました。しかし、昼近く潮流が西に変わ
りはじめると接近戦となり、さらに義経が平家軍の
水子・舵取りを射させて混乱させ、戦況は逆転。源
氏が優勢になるにつれ、平家から源氏へ裏切るもの
が相次ぎ、平家きっての武将、平教経は、義経を討
とうとして追い詰めましたが、義経は俗にいう「八
艘飛び」で味方の船に逃れ、難を逃れました。勝敗
がついたのは午後4時、知盛はじめ主だった武将は
一門の最期を見届けると、次々に入水しましたが、
平家の総帥、宗盛親子は捕虜となって戦いは終わり
ました。関門海峡には、ただおびただしい平家の赤
い旗印が漂うばかりでした。栄華を極めた平清盛の
一族は歴史上からその姿を消し、再び表舞台に立つ
ことはありませんでした。だが、本当の戦いはどう
だったのか記録が残されていないため詳細は未だ勝
手不明であった。でも、この潮流が勝敗を決した最


DSCF1308大の要因とも言われます。
壇ノ浦の戦いの地ですが、
戦いは海上で行われている
為、地上に於いて合戦の地
とはいかがなものでしょう。

また、八艘飛びも疑いたくなってしまう。重い鎧兜
を身につけ、不安定な船上から約6mも離れた船に飛
び移ろうなんてとても出来はしない。まして義経は
小男と言われ他の人より非力だったと文献に残って
いる。また源氏側が赤旗で、平氏側が白旗だったの
も、今日では、白旗は、戦争に於いて」「降参」を
意味している点は、因果関係があるのかな。

DSCF1309現在は「みもすそ川公園」と
して市民憩いの場となってい
る。目前の海は関門海峡の一
番狭まったところで「早鞆の
瀬戸」といわれ、潮の流れが

速く、潮流の変化が激しい海の難所です。また近くに
は、宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った巌流島がある。