2013.10.14
10月になり待ちに待った3連休、またしても『歩
いていこう旧東海道五十三次』に出掛け3日目が
始まろうとしていた。今
日の予定は、またしても
早朝より歩き始め10時頃
に切り上げ帰路に着くい
つものパターンでもあっ
た。
8:27 四日市宿本陣があ
ったと思われる地点通過
、愛知、三重とどうも旧
東海道に関する熱の入れ
ようが冷めている、静岡県では統一のある石碑で
丁寧に案内がされていて、比較して悪いが怠慢の
ように思われる。
昔の東海道を潰し、現在は家が建っている光景に
愕然とする。一番多いのは道路拡張による破壊だ
がここはそれ以前の話だ。行政の区画整理で廃道
されたのかな。
お諏訪様の前を通る参道
商店街が旧道でもあった
が、まだ全ての店が開店
前と言うこともあって閑
散としていたが夕刻頃は
賑わっていることだろう。
広重が描いた四日市宿、
昔は宮宿までの10里渡し
もあったそうです。現在
の宿場中心は結構内陸に
なっていますが当時は海岸に近かったと思われ
ます。(埋め立てが原因でしょう)
アーケードを進むが人
気が無く寂しいが唯一
の救いは明るかったこ
とだ。これで照明が無
い暗い状態では恐ろし
さも感じることだろう。
暫く進むと足元にタイ
ルで描かれた東海道の
描写が現れ、恐らく四
日市のことを描いてい
るのだろう。全部で4画
あり、ひたすら歩くしか
能が無い拙者には一服の
清涼感にも似た、いや違
うこのような物があるだ
けで疲れが癒やされ足並みが軽やかになっていく
もんだ。
消火栓蓋にも廣重の絵が
描かれていた。よくよく
見ないと当初は解らなか
ったが、確かに風で飛ば
された笠を追いかける旅
人がそこにはあった。
近鉄赤堀駅、すぐ近くを歩いていたので寄り道
8:57 地図 駅入り口には大きな楠があり名物
となっている。
この駅近くには鈴木薬局
が旧東海道に面し、1852
年(嘉永5年)以来の建
路幅が軌間762mmという
特殊狭軌の軽便鉄道とし
て建設され、現在も当時
のままの軌間で運行され
ることにまだ気がついていなかった。そろそろ9
時を過ぎたので本日の行脚(徘徊)は次の駅日永
までで終えようと決めていた。日永駅に着く寸前
始めて内部(うつべ)線の列車を拝見する出来、
何ともカラフルで可愛い電車が現れ、まるでおと
ぎの国から来たような電車であった。
2012年に四日市市議会は
内部・八王子線の存続問
題を審議する総合交通政
策調査特別委員会を設置
した。しかし近鉄は8月21
日、地元住民に対して鉄路を廃止し、跡地をバス
専用道路にしてバスによる運用に転換する〈BRT
〉化)の方針を発表した。
現在もなお廃線の危機に
立たされている。
8:09 日永駅到着。無人
駅だが自動券売機が設置
してあったが、ICカード
の利用出来ない。9:17 四日市行きが駅に滑り
込んできた、あれ?やけに小さい車両とここで
始めて気がついた。これって軽便鉄道並みだな。
こんな小さな電車、市電や都電以外に乗ったこ
とが無い。こんな電車がちゃんと走っているこ
と自体に驚いた。
車内へ乗り込んで更に驚
いた。座席が片側一列し
か無いんだ、凄いよこの
電車。こんな電車が走っ
ていたのをもっと早く知
っていたなら必ずや訪問し試乗していたのに。当
然のことながら拙者の目は白黒させていたんだろ
うな。
先頭車両に移動すると運
転席もおもちゃみたいだ
った。軌間762mmは以前
行った黒部峡谷鉄道(ト
ロッコ電車)も同じ軌間
それと西桑名駅に乗り入れしている三岐鉄道北勢
線。そして屋久島にあった安房森林鉄道もそうで
あった。
自家用車で旧東海道五十
三次を巡っていたからこ
の鉄道に巡り会えたこと
に感謝しよう。これが10
月12-14にかけての3連休
を使った『歩いていこう旧東海道五十三次』であ
った。次回は11/2の予定です。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
2013.11.2
またまたやってきてしまった、行程も1/5を残す
のみとなった『歩いていこう旧東海道五十三次』
の企画も今回の3連休を使い草津宿までたどり着
くか、もしくはその最寄り駅までが目標でもあっ
た。この3連休を東海道歩こうにあたって凄く悩
んだ。月末月初は、拙者が働く会社では超仕事が
ハードになるのだ。出掛ける日の朝は、4時起き
で会社に向かっていたほど辛かったが、今回の連
休を逃すと年内に三条大橋にたどり着くのが困難
になってくる。是が非でも年内に、出来れば当初
に掲げた錦秋の頃にたどり着きたい夢が叶わなく
なってしまう。そんなこんなで、体にむち打って
の敢行となった。
『歩いていこう旧東海道五十三次』が今再開しよ
うとしていた。
前回の最終到達ポイント、
近鉄日永駅に再び現れた。
6:01 地図
これでも最低の睡眠時間
しか取れなかった。う~
眠い。まぶたが重くて開けられない。眠くて眠く
て体がまだ目覚めない、体が覚醒しない。
体調指数を表すなら60%
だ!仕事疲れがもろに出
ている。歩いていると明
日3日 第45回大学駅伝が
行われる出場校大東文化
大学が朝練を開始しようとしていた。(結果は7位)
今日は冷え込んでいる、
いつもの七部パンツでは
無く長ズボンにウインド
ブレーカー着用していた。
11月は晩秋になるのかな、
季節が巡るのは早いねより1年経つのがもの凄く
早い。ついこの間正月だった気がする。また一つ
年取るのいやだな。
6:47 日永追分到着。
地図 東海道と伊勢街道
の分岐点(追分)。現在
は国道1号線の追分交差点
となっている。
日永の追分の鳥居は桑名の七里の渡しに建てられ
た一の鳥居に対して二の鳥居と呼ばれました。四
日市を描いた浮世絵には、この鳥居を中心にした
追分の風景が数多く描かれています。現在の鳥居
は、平成28年10月に志摩市にある伊雑宮の鳥居を
移建して建替えられ、当初は伊勢街道をまたぐよ
うに建てられていましたが、現在は伊勢街道が鳥
居の横を迂回し、鳥居をくぐらずに進めるように
なっていた。追分には、常夜燈、道標、清めの手
水所があり、常夜燈のひとつは奉献時から存在し
たと推定されている。日永は、四日市宿と石薬師
宿の間に立つことから間の宿とよばれ、この辺り
には多くの旅籠や茶店などが並んでいました。こ
の敷地内には湧き水が出ており地元民が水を汲ん
でいた。こんな町の中にどうして湧き水が出てい
るのか不思議であった。
追分駅にさしかかろうと
したらまたあの電車に出
会えた。また乗ってみた
いな、おもちゃみたいな
電車に・・・
改めてレールを見れば超
狭い。成人男性の歩幅が
80cmと言われるがそれよ
りも狭い。その狭いレー
ル幅に列車が乗るのだか
ら驚きだね、でもそんな
列車だからこそ存続して
欲しいと願わずにはいら
れなかった。
徘徊していると真っ赤な
実を付けた樹木が現れた。
南天の木だ!昔から縁起
の良い木として珍重され
ている。音が「難を転ず
る」に通ずることから、縁起の良い木とされ、鬼
門または裏鬼門に植えると良いなどという俗信が
ある。南天の木と福寿草
とセットで「災い転じて
福となす」ともいわれ、
それと似たようなことだ
が『ふくろう』は大好き
だね。不苦労もしくは、福来ろうと言われる点が
いいね。
ここは近鉄内部線終点の
内部駅近くの旧東海道で
ある。地図
すると杖衝坂(つえつき
さか)500m先の看板が出
現、また難所があるのか
な?東の箱根、西の鈴鹿
は有名だが、聞いたこと
無いぞ。でも余計な知識が無いままさしかった小
夜の中山(掛川市)は辛かった。
杖衝坂は、確かに勾配は
きつかったが、意外に短
く呆気なく終わってしま
った。それだけ拙者が強
くなっていたのかもしれ
ない。地図 うつべ町か
ど博物館だが、7:47では、
まだ開館していない。こ
の博物館は、内部地区の
町づくり事業のひとつと
して、歴史と文化をテーマに地域のボランティア
で運営されている。これまで地区内の子どもたち
や、市内のサークルなどに利用されているが、市
外・県外から見学に訪れる人もいるとのこと。地
域で収集した明治・大正・昭和の生活用品の展示
や内部の歴史を紹介され、また、地区内にある西
野・北小松・米田・山川の遺跡の出土品を、市か
ら借り受けて展示しているコーナーもある。地図
ここで地元民のおじさまと僅かだが会話が出来た。
内容は、東海道を歩いていると言うたわいの無い
話だけだが、数分いや数十秒でも地元の方と語り
合えたことが嬉しいもの
だ。一旦国1に合流した旧
道だが、再び本来のある
べき姿旧東海道の姿へ戻
っていき、この交差点を
左に逸れる。地図
再び国1に合流し、欄干か
ら川面を見れば白濁した
水たまりがあり、あれっ
てもしかしたら冷泉では
ないか。温度こそ無いが
成分が含有していると言うことは温泉法に則り温
泉と認められる?はずの白濁さだね。護岸がある
位置から真っ白になっていて、石灰成分が溶け出
していると思われる。冷泉とは言え誠に勿体ない
話である、活用方法はないものかね。地図
再び国1と別れここの坂を
登っていくと石薬師宿到
着だ。地図
すると宿場入り口に「信綱かるた道」なるものが
あったが文学心の無い拙者には心に響くものが無
かったが、平成17年、東海道石薬師宿の北端から
南端の1.8kmの間を「信綱かるた道」と名付けた。
当初信綱かるたの歌とそれに添える絵をベニヤ板
に焼き付け28基設置し、平成19年には36基とした。
10月になり待ちに待った3連休、またしても『歩
いていこう旧東海道五十三次』に出掛け3日目が
始まろうとしていた。今
日の予定は、またしても
早朝より歩き始め10時頃
に切り上げ帰路に着くい
つものパターンでもあっ
た。
8:27 四日市宿本陣があ
ったと思われる地点通過
、愛知、三重とどうも旧
東海道に関する熱の入れ
ようが冷めている、静岡県では統一のある石碑で
丁寧に案内がされていて、比較して悪いが怠慢の
ように思われる。
昔の東海道を潰し、現在は家が建っている光景に
愕然とする。一番多いのは道路拡張による破壊だ
がここはそれ以前の話だ。行政の区画整理で廃道
されたのかな。
お諏訪様の前を通る参道
商店街が旧道でもあった
が、まだ全ての店が開店
前と言うこともあって閑
散としていたが夕刻頃は
賑わっていることだろう。
広重が描いた四日市宿、
昔は宮宿までの10里渡し
もあったそうです。現在
の宿場中心は結構内陸に
なっていますが当時は海岸に近かったと思われ
ます。(埋め立てが原因でしょう)
アーケードを進むが人
気が無く寂しいが唯一
の救いは明るかったこ
とだ。これで照明が無
い暗い状態では恐ろし
さも感じることだろう。
暫く進むと足元にタイ
ルで描かれた東海道の
描写が現れ、恐らく四
日市のことを描いてい
るのだろう。全部で4画
あり、ひたすら歩くしか
能が無い拙者には一服の
清涼感にも似た、いや違
うこのような物があるだ
けで疲れが癒やされ足並みが軽やかになっていく
もんだ。
消火栓蓋にも廣重の絵が
描かれていた。よくよく
見ないと当初は解らなか
ったが、確かに風で飛ば
された笠を追いかける旅
人がそこにはあった。
近鉄赤堀駅、すぐ近くを歩いていたので寄り道
8:57 地図 駅入り口には大きな楠があり名物
となっている。
この駅近くには鈴木薬局
が旧東海道に面し、1852
年(嘉永5年)以来の建
物が残る。鈴木薬局(旧
鈴木製薬所) 竹の切り
口を示す「丸二つの組み合わせ」の登録商法に、
「赤万能即治膏」・「無二即治膏」・「萬金丹」
・「真妙円」などの膏薬の名前が書かれた古い看
板を掲げる鈴木薬局は、200年以上も製薬業を営
む旧家であり。代々勘三郎の名を受け継ぎ、現在
の当主鈴木友造氏で第十一代を数えるが、同家に
伝わる家系図によると、第四代勘三郎高春が、寛
延三年(1750)二月に蘭学勃興の地、長崎に赴き
、漢方を伝授されたといわれている。建物は東海
道沿いの古い家の中でも一際がっちりとしたもの
である。これは第六代勘三郎高光が、嘉永五年(
1852)に建てたものであることが家系図によって
わかる。玄関には約60kgの重い木製の上げ下げ戸
があり、東海道に面した表には連格子がはめられ
、六畳から十二畳の部屋が奥に続き、そのうちの
ひとつの欄間には、厚い檜の近江八景を形どった
一枚彫りがある。また、
土蔵とともに膏薬をつく
った作業場があり、薬研
などの貴重な道具が保存
されている。
それよりのこの鉄道の線鈴木製薬所) 竹の切り
口を示す「丸二つの組み合わせ」の登録商法に、
「赤万能即治膏」・「無二即治膏」・「萬金丹」
・「真妙円」などの膏薬の名前が書かれた古い看
板を掲げる鈴木薬局は、200年以上も製薬業を営
む旧家であり。代々勘三郎の名を受け継ぎ、現在
の当主鈴木友造氏で第十一代を数えるが、同家に
伝わる家系図によると、第四代勘三郎高春が、寛
延三年(1750)二月に蘭学勃興の地、長崎に赴き
、漢方を伝授されたといわれている。建物は東海
道沿いの古い家の中でも一際がっちりとしたもの
である。これは第六代勘三郎高光が、嘉永五年(
1852)に建てたものであることが家系図によって
わかる。玄関には約60kgの重い木製の上げ下げ戸
があり、東海道に面した表には連格子がはめられ
、六畳から十二畳の部屋が奥に続き、そのうちの
ひとつの欄間には、厚い檜の近江八景を形どった
一枚彫りがある。また、
土蔵とともに膏薬をつく
った作業場があり、薬研
などの貴重な道具が保存
されている。
路幅が軌間762mmという
特殊狭軌の軽便鉄道とし
て建設され、現在も当時
のままの軌間で運行され
ることにまだ気がついていなかった。そろそろ9
時を過ぎたので本日の行脚(徘徊)は次の駅日永
までで終えようと決めていた。日永駅に着く寸前
始めて内部(うつべ)線の列車を拝見する出来、
何ともカラフルで可愛い電車が現れ、まるでおと
ぎの国から来たような電車であった。
2012年に四日市市議会は
内部・八王子線の存続問
題を審議する総合交通政
策調査特別委員会を設置
した。しかし近鉄は8月21
日、地元住民に対して鉄路を廃止し、跡地をバス
専用道路にしてバスによる運用に転換する〈BRT
〉化)の方針を発表した。
現在もなお廃線の危機に
立たされている。
8:09 日永駅到着。無人
駅だが自動券売機が設置
してあったが、ICカード
の利用出来ない。9:17 四日市行きが駅に滑り
込んできた、あれ?やけに小さい車両とここで
始めて気がついた。これって軽便鉄道並みだな。
こんな小さな電車、市電や都電以外に乗ったこ
とが無い。こんな電車がちゃんと走っているこ
と自体に驚いた。
車内へ乗り込んで更に驚
いた。座席が片側一列し
か無いんだ、凄いよこの
電車。こんな電車が走っ
ていたのをもっと早く知
っていたなら必ずや訪問し試乗していたのに。当
然のことながら拙者の目は白黒させていたんだろ
うな。
先頭車両に移動すると運
転席もおもちゃみたいだ
った。軌間762mmは以前
行った黒部峡谷鉄道(ト
ロッコ電車)も同じ軌間
それと西桑名駅に乗り入れしている三岐鉄道北勢
線。そして屋久島にあった安房森林鉄道もそうで
あった。
自家用車で旧東海道五十
三次を巡っていたからこ
の鉄道に巡り会えたこと
に感謝しよう。これが10
月12-14にかけての3連休
を使った『歩いていこう旧東海道五十三次』であ
った。次回は11/2の予定です。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
2013.11.2
またまたやってきてしまった、行程も1/5を残す
のみとなった『歩いていこう旧東海道五十三次』
の企画も今回の3連休を使い草津宿までたどり着
くか、もしくはその最寄り駅までが目標でもあっ
た。この3連休を東海道歩こうにあたって凄く悩
んだ。月末月初は、拙者が働く会社では超仕事が
ハードになるのだ。出掛ける日の朝は、4時起き
で会社に向かっていたほど辛かったが、今回の連
休を逃すと年内に三条大橋にたどり着くのが困難
になってくる。是が非でも年内に、出来れば当初
に掲げた錦秋の頃にたどり着きたい夢が叶わなく
なってしまう。そんなこんなで、体にむち打って
の敢行となった。
『歩いていこう旧東海道五十三次』が今再開しよ
うとしていた。
前回の最終到達ポイント、
近鉄日永駅に再び現れた。
6:01 地図
これでも最低の睡眠時間
しか取れなかった。う~
眠い。まぶたが重くて開けられない。眠くて眠く
て体がまだ目覚めない、体が覚醒しない。
体調指数を表すなら60%
だ!仕事疲れがもろに出
ている。歩いていると明
日3日 第45回大学駅伝が
行われる出場校大東文化
大学が朝練を開始しようとしていた。(結果は7位)
今日は冷え込んでいる、
いつもの七部パンツでは
無く長ズボンにウインド
ブレーカー着用していた。
11月は晩秋になるのかな、
季節が巡るのは早いねより1年経つのがもの凄く
早い。ついこの間正月だった気がする。また一つ
年取るのいやだな。
6:47 日永追分到着。
地図 東海道と伊勢街道
の分岐点(追分)。現在
は国道1号線の追分交差点
となっている。
日永の追分の鳥居は桑名の七里の渡しに建てられ
た一の鳥居に対して二の鳥居と呼ばれました。四
日市を描いた浮世絵には、この鳥居を中心にした
追分の風景が数多く描かれています。現在の鳥居
は、平成28年10月に志摩市にある伊雑宮の鳥居を
移建して建替えられ、当初は伊勢街道をまたぐよ
うに建てられていましたが、現在は伊勢街道が鳥
居の横を迂回し、鳥居をくぐらずに進めるように
なっていた。追分には、常夜燈、道標、清めの手
水所があり、常夜燈のひとつは奉献時から存在し
たと推定されている。日永は、四日市宿と石薬師
宿の間に立つことから間の宿とよばれ、この辺り
には多くの旅籠や茶店などが並んでいました。こ
の敷地内には湧き水が出ており地元民が水を汲ん
でいた。こんな町の中にどうして湧き水が出てい
るのか不思議であった。
追分駅にさしかかろうと
したらまたあの電車に出
会えた。また乗ってみた
いな、おもちゃみたいな
電車に・・・
改めてレールを見れば超
狭い。成人男性の歩幅が
80cmと言われるがそれよ
りも狭い。その狭いレー
ル幅に列車が乗るのだか
ら驚きだね、でもそんな
列車だからこそ存続して
欲しいと願わずにはいら
れなかった。
徘徊していると真っ赤な
実を付けた樹木が現れた。
南天の木だ!昔から縁起
の良い木として珍重され
ている。音が「難を転ず
る」に通ずることから、縁起の良い木とされ、鬼
門または裏鬼門に植えると良いなどという俗信が
ある。南天の木と福寿草
とセットで「災い転じて
福となす」ともいわれ、
それと似たようなことだ
が『ふくろう』は大好き
だね。不苦労もしくは、福来ろうと言われる点が
いいね。
ここは近鉄内部線終点の
内部駅近くの旧東海道で
ある。地図
すると杖衝坂(つえつき
さか)500m先の看板が出
現、また難所があるのか
な?東の箱根、西の鈴鹿
は有名だが、聞いたこと
無いぞ。でも余計な知識が無いままさしかった小
夜の中山(掛川市)は辛かった。
杖衝坂は、確かに勾配は
きつかったが、意外に短
く呆気なく終わってしま
った。それだけ拙者が強
くなっていたのかもしれ
ない。地図 うつべ町か
ど博物館だが、7:47では、
まだ開館していない。こ
の博物館は、内部地区の
町づくり事業のひとつと
して、歴史と文化をテーマに地域のボランティア
で運営されている。これまで地区内の子どもたち
や、市内のサークルなどに利用されているが、市
外・県外から見学に訪れる人もいるとのこと。地
域で収集した明治・大正・昭和の生活用品の展示
や内部の歴史を紹介され、また、地区内にある西
野・北小松・米田・山川の遺跡の出土品を、市か
ら借り受けて展示しているコーナーもある。地図
ここで地元民のおじさまと僅かだが会話が出来た。
内容は、東海道を歩いていると言うたわいの無い
話だけだが、数分いや数十秒でも地元の方と語り
合えたことが嬉しいもの
だ。一旦国1に合流した旧
道だが、再び本来のある
べき姿旧東海道の姿へ戻
っていき、この交差点を
左に逸れる。地図
再び国1に合流し、欄干か
ら川面を見れば白濁した
水たまりがあり、あれっ
てもしかしたら冷泉では
ないか。温度こそ無いが
成分が含有していると言うことは温泉法に則り温
泉と認められる?はずの白濁さだね。護岸がある
位置から真っ白になっていて、石灰成分が溶け出
していると思われる。冷泉とは言え誠に勿体ない
話である、活用方法はないものかね。地図
再び国1と別れここの坂を
登っていくと石薬師宿到
着だ。地図
すると宿場入り口に「信綱かるた道」なるものが
あったが文学心の無い拙者には心に響くものが無
かったが、平成17年、東海道石薬師宿の北端から
南端の1.8kmの間を「信綱かるた道」と名付けた。
当初信綱かるたの歌とそれに添える絵をベニヤ板
に焼き付け28基設置し、平成19年には36基とした。